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近代前期の天文暦学 その4

こんにちは、渡辺です。

前回の「近代前期の天文暦学 その3」の続きになります。

陰陽道の後には、さらに仏教系の宿曜道(平安時代、空海をはじめとする留学僧らにより、 密教の一分野として日本へもたらされた占星術の一種)まで加わり、月日と干支によって定められる多くの暦注が記入されることになりました。

正月節の立春から2月節の啓蟄の前日までの期間にある丑の日には、暦の下段にきこ(帰忌日)とけこ(血忌日)の2種の暦注が記入されます。きこの日は、天倍星の精が天から地に降って人の門戸に居住する日です。したがって遠方から帰宅すること、移動、嫁とり、元服、入国には大悪となり、この日を使ってはならないと解説されています。けこの日は、血に関係したことを忌む日で、鳥獣の殺生や手術などに凶の日と解説されています。

この解説は暦の中に記されているのではなくて、暦注の解説書の中に見出されるものであって、江戸時代にも賀茂保憲の著といわれる『暦林問答集』(文化8年)をはじめとして多数出版されました。それほど庶民は日の吉凶や禁忌に関する事がらを信じていて、日本人の科学性という問題に興味ある素材を提供しました。暦注は、古く奈良時代に始まった漢文で書かれた具注暦(日本の朝廷の陰陽寮が作成し頒布していた暦)から存在しています。さらに平安時代末期から鎌倉時代初期に現れたと考えられる仮名暦(仮名文字を使って書かれた和暦のこと。陰陽寮で作成されて漢字を用いた具注暦に対して、民間で作成)でも同様であって、その後長く続きました。そして明治6年の改暦の時にこれらは暦から姿を消しました。そして、新たに六曜(先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口)が記入されたのです。

ところで、江戸時代を通じて、各地で印刷して発行した地方暦がありました。印刷地の地名を冠してそれぞれ京暦、三島暦、薩摩暦、会津暦、南都暦、丹生暦、伊勢暦、江戸暦というものがありました。京暦は京都で出版されたものですが、起源は古く印刷以前には経師により養子本に仕立てられて公卿などに配布されました。三島暦は二番目に古い起源を持つ暦で、宝亀年間(770~780)に伊豆三島に河合某が土地を朝廷から賜り、天文台を建てて暦を定めたことから始まったと伝えられています。京暦から独立して計算をしたという伊豆、相模、会津の諸国に分けましたが、貞享改暦後は幕府天文方から与えられた暦を印刷して伊豆と相模の二国にのみ分けました。薩摩暦は京都、江戸の両者から独立し、計算して頒暦をしたようです。

続きはまた次回お話します。


参考文献 明治前日本天文学史