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近代前期の天文暦学 その5

こんにちは、渡辺です。

前回の「近代前期の天文暦学 その4」の続きになります。

会津暦の起源は永享年間(1430~1440)とされ、開板は元和6年でした。貞享後の頒布地域は相当に広く、米沢、福島、二本松、白河、大田原、喜連川、宇都宮、日光、最上、宕城、相馬、三春、秋田、越後(現在の行政区分でいえば、福島、山形、栃木、秋田、新潟の各県)にまたがっています。伊勢暦は全国にもっとも広く使われた暦で、伊勢神宮の神官が大麻とともに暦の配布を始めたのは15世紀後半とされますが、江戸時代になって作暦・頒暦を行い内容にも特徴があり、また陰陽師も存在しました。

しかし、貞享改暦後は独自性を失いました。また、その形式は折暦で特徴がありました。江戸暦は江戸初期には認可されて頒暦していたと考えられますが、定かではありません。最盛時28名の暦師がいましたが、元禄11年以後は11名に制限されました。上記の他、江戸時代以前および江戸時代に頒けられた暦として、大宮暦、大坂暦、泉州暦、仙台暦、金沢暦がありました。地方暦の発生は、中央暦がじゅうぶん広範囲に頒布されなかったことと一般人の需要が強かったことによるものでした。

貞観元(859)年に渤海の大使馬孝慎が来日して宣明暦を献上し、同4年にこれを使い始めました。しかし、その後唐との交流が絶え、そのまま日中間の交流が再開されなかったため新暦の輸入がなくなりました。また、京都に秀でた編暦技術者もいなかったため、宣明暦は823年の長い期間用いられました。

宣明暦は1年を365.2446日としています。中国で用いられ始めた822年から貞享元(1684)年まで862年になり、天象と暦の表示の差は2日以上になってしまいました。貞享以前からこのズレは問題になっており、日月食の予報などについて盛んに論じられて次第に暦の権威が低下しました。

貞享改暦を行った渋川春海(1639~1715)は、幕府碁所安井算哲の子として京都に生まれました。幼名六蔵のち算哲さらに助左衛門と改めました。春海は号。姓は初め安井のち保井、晩年に渋川と改めました。幼時より俊英で、13歳で父の代わりに碁所に仕えることとなりました。山崎闇斎について朱子学、また垂加神道の奥秘を受けました。岡野井玄貞、松田順承から暦学を学び、さらに安部泰福にも師事しました。暦法のうち特に授時暦の研究を深めるとともに、緯度測定や天体観測を行い、ついに大和暦を作りました。

続きは次回

参考文献 明治前日本天文学史