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近代前期の天文暦学 その2

日めくりカレンダーのイラスト

こんにちは、渡辺です。

前回の「近代前期の天文暦学 その1」の続きになります。

暦には2種類あります。一つ目は「かよみ」から「こよみ」へ転化した、語が示す日を知る技術の「こよみ」と、二つ目は人間集団が形成する社会体制において、意識的に作成されて配布される「こよみ」です。この両方は技術としての暦と制度としての暦と言えると思います。二つ目の「こよみ」の場合は、その制度の一部として一つ目のこよみを取り込んでいます。普通に用いられる「こよみ」は、二つ目の「こよみ」であることが多いです。

 人間の生活が自然物採取の生活から定住をともなう農耕生活へと進んだとき、農耕に従事する者は日や季節を知る必要に迫られました。その必要から素朴な形で自然暦が自覚されていきました。古代人は日本アルプス高峰シロウマ岳山頂をおおう雪が、春の訪れとともにしだいに融けていき、山頂付近の山肌にウマ形に雪が消え残っている頃に、苗代の作業を始めることが最適であることを知りました。これは技術としての暦であり、シロウマ山麓の地区では、小なりといえども妥当性を持つことができました。

ちなみにシロウマとは、漢字表記として代馬と書かれていましたが、現在は白馬と書かれており、そのためにハクバと音読されて本来意味するところが不明になっています。ここに述べたのは一例でありますが、こうした自然暦は各地で発見されています。

しかし、村から国へと社会規模が拡大し、より広大な地域とより多くの人間が一つの政治体制のもとで統治される状態になると、制度として暦が必要となりました。こうして、自然暦に始まる第一の意味の技術としての暦と第二の意味の制度としての暦は、それぞれ異なる発達をして現在に至っています。そして、技術としての暦が成立しなければ、制度としての暦は存在せず、また技術としての暦は知識の体系化が進み、学としての暦となり、暦学となりました。そして実際に暦をつくる方法を暦法といいます。

技術としての暦は古代エジプト、バビロニア、中国という文明発祥地の例が示すように、かなり早い時期に万人がひとしく仰ぎ観る太陽と月の運動にその基礎を置くようになっていました。ここから太陰太陽暦、太陽暦、太陰暦の三種の暦が生れました。

1年は365.2422日であり、1月は29.530589日で、その12倍は354・4日となります。その差は約11日であります。両方の差を考慮して閏月を入れて閏年をおき、季節と暦日のズレを1ヶ月以内にとどけるように工夫しているのが太陰太陽暦であります。太陰太陽暦は中国とその周辺の中国文化圏において伝統的に使われてきました。

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参考文献 明治前日本天文学史