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近代前期の天文暦学 その3

こんにちは、渡辺です。

前回の「近代前期の天文暦学 その2」の続きになります。

日本が中国から受容した暦については既にお伝えしましたが、江戸時代の貞享改暦前に行われていた暦法は宣明暦(中国暦の一つで、かつて中国や日本などで使われていた太陰太陽暦の暦法)であり、この暦法により編纂された暦が日本各地で使われました。当時暦の編纂は京都の土御門家(日本の朝廷に仕えた公家)が掌握しており、同家が編纂した暦を朝廷に上奏してその裁可を得て暦を分けていました。

貞享の改暦後は、暦の上段の暦日(月日)を江戸で計算して中段と下段の記事を土御門家で記入していました。一般に、暦の上段には日付・曜日・二十四節気、七十二候などの科学的・天文学的な事項や年中行事が書かれ、中段には十二直、下段には選日・二十八宿・九星・暦注下段などの事項が書かれています。また、六曜は日付の下に書かれることが多いです。

完成した暦は、大経師内匠(宮廷の工匠)により20巻分写されました。写した20巻のうち14巻を、江戸に7巻、伊豆三島に1巻、伊勢内外宮に3巻、奥州会津に1巻、南都に2巻の割合で、幕府天文方から地方の暦職へ送られ、それぞれの地方が印刷して配布されました。こうして暦政策は、貞享期になってはじめて幕府が統一して行うことが可能となりましたが、徳川幕府の全国統一は暦政策の面では著しく遅れてしまいました。

ところで、貞享改暦後は、暦の上段の月日は江戸で計算され、中段・下段の記事を京都の土御門家で記入していたことは先述しましたが、日を知るという暦本来の目的からいえば、月日と季節さえ判明すれば十分だったのです。したがって、月日と二十四節気さえ記入されていれば実用にたえるのでありますが、実際にはこのほかに干支と暦注が記入されています。

干支すなわち十干十二支は、古代中国の自然哲学である陰陽思想、五行思想(紀元前の中国の春秋戦国時代に生まれた自然哲学の思想。具体的には、自然や人間の生活を形成する日・月・年や季節、方位などすべてを説明し、儒教や医学、天文学などの学問や音楽など、中国文化の根幹を支える理論)と関連しており、その組合せで年や日を示していくと六十の周期で再び同じ組合せが現れることから、中国では古くから陰陽道の讖緯説(儒学と陰陽五行説が合体した一種の未来予知説)にもとづいて甲子や辛酉の年に改元する説や革命説が生れました。これは、日本でも信奉されました。

次回につづきます。

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参考文献 明治前日本天文学史