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近世前期の天文暦学 その1

こんにちは、渡辺です。

現在の暦は太陽暦(グレゴリオ暦)が採用されていますが、江戸時代に用いられた暦は宣明暦(せんみょうれき)というもので、江戸庶民が日常で使った暦もすべて宣明暦に基づいて作成されました。宣明暦法は、中国唐時代の徐昻(じょこう)によって作られ、中国ではこの暦法に基づく暦を唐の長慶2(822)年から景福元(892)年まで、唐の時代もっとも長く用いられました。この暦は宣明暦または長慶宣明暦と呼ばれていました。

日本へは渤海(※)から貞観元(895)年にもたらされ、貞観4(899)年から使用されるようになりました。その後、日中間の交易が途絶えてしまったので、新暦法を輸入することができず、貞観4年から820年以上経った江戸時代になるまでの長期間、貞享暦ができるまで日本は宣明暦を使い続けました。
※渤海(ぼっかい)とは、8~10世紀、中国東北地方の東部に起こった国のこと

暦法は本来暦学専門家が使用するものですが、江戸時代初期になってしだいに文明が開け、一般人も暦に関心を寄せるようになりました。和算家の中にも暦に関心をもつ人が現れて、例えば今村知商「日月会合算法」(宝永12年)、吉田光由「古暦便覧」(慶安元年)が著わされました。また、宣明暦法の計算法を述べた書物も著わされました。すなわち、寛永21(正保元)年の「宣明暦」は暦書の計算資料となるものですが、万治元年の榎並和澄「暦学正豪」とともに一般人には理解することは難しいものでした。

これに対して会津の安藤有益「長慶宣明暦算法」(寛文3年)は仮名交り文で書かれていたので、一般人にも歓迎され、暦に関する知識が普及するのに役立ちました。このように宣明暦の解説書が著わされていました。しかし、当時施行以来800年近くを経過した宣明暦が天体と合致しない現象が起こり、例えば宣明暦では冬至の日付が2日も遅れることが起きました。このため、民間の論者の中にも暦法と暦について研究する者が現れ、宣明暦に替わるものとして授時暦をもっとも重要視し、それを研究するようになりました。

授時暦は、郭守敬・王恂・許衝によって編まれた中国の暦で、精密な観測資料とよく検討された過去の記録を基礎として、優れた手法でつくられていました。この授時暦をもって宣明暦に替えることが適切ではないかと考えられたので、寛文12年には元史の「授時暦経」と「授時暦議」が復刻され、翌年には堺の小川正意が「新勘授時暦経」「新勘授時暦経立成」を刊行されました。こうして、しだいに貞享改暦の機運が高まっていくのでした。

授時暦研究は、貞享改暦後も続いて行われ、元禄16(1703)年に小泉光保「授時暦経図解」、正徳元年亀谷和竹「授時暦経諺解」、正徳4年に林正延「授時暦図解発揮」その他が刊行されました。また、和算史上著名な関孝和にも授時暦の研究書がありました。

今では当たり前のように暦を見ていますが、江戸時代には日本各地によって日付が違うこともあったようです。暦の話は次回も続きます。

参考文献 明治前日本天文学史