そもそも手帳とは?③
こんにちは、髙橋です。
前回の『そもそも手帳とは?②』の続きになります。
今回は企業・団体が独自に作られる手帳『年玉手帳』についてお話をしたいと思います。
手帳はもらうもの?
手帳は自分で『買うもの』これは当たり前の感覚として皆さんにはあるかと思いますが、昔は会社や取引先から『もらうもの』というのが当たり前の感覚でした。
手帳は暮れのご挨拶の品として銀行や取引先からいただくもの又は所属する企業・団体の情報を携帯するものでした。
前回1879年に大蔵省印刷局によって「懐中日記」が作られたことをお伝えしたと思いますが、翌年の 1880年(明治13年) には民間の会社でも手帳が作られ始めました。民間初の手帳は、当時の住友銀行が横浜の文具店『文寿堂』に依頼して作製した社名入りの手帳だと言われております。
では、なぜこの時代に『年玉手帳』が作られるようになったのでしょうか?
ここからは私の考察になってしまうのですが、
理由は三つあると考えております。まず第一に『時間軸が変わった』こと。第二に『商売の組織化が進んだ』 こと。第三に『手帳に必要な材料・設備が整った』こと。だと考えております。
第一の 『時間軸が変わった』 とは、明治5年(1872年)暦が太陰太陽暦から太陽暦(グレゴリオ暦)に変わったことにより、諸外国との交流を持つうえで、時間軸を合わせる必要があったため、新しい時間軸を浸透させるためのツールが必要になったのではないかと考えております。
第二の『商売の組織化が進んだ』とは、明治維新以降は、株式会社制度が導入された時期になります。江戸時代の『家族的結社』から『共同事業組織』へと資本主義化が加速した時代でもあり、その変化を定着させるためのツールが必要になったのではないかと考えております。
第三の『手帳に必要な材料・設備が整った』とは、西洋の文明・文化に触れ、日本初の産業が沢山誕生した時代です。手帳に必要なものは、安価な紙と大量に印刷する技術です。これらの技術が政府だけでなく、民間からも生まれた時代です。海外の技術を用いて国内で手帳を製造出来るようになったというのが、大きな要因ではないかと考えております。
1858年の日米修好通商条約 (開国) により、日本は諸外国との交流を再開しました。日本の若き留学生が諸外国の文化・文明に触れ、西洋列強との差を肌で体感し、危機感と共に持ち帰り、日本が西洋の植民地にならないようにするために、 経済的発展と教育改革が急務でした。ですが、いくら国ががらりと変わっても、国民がその変化についてこれなければ話になりません。
極端な例えですが、
昨日まで刀を持っていた武士が、明日から銀行の営業部で名刺を持って取引先に行ってくれ!
といわれても何をしていいかさっぱりです。
では、どうすればスムーズに変化・定着させることが出来るのか?
各企業の構成員に、企業の理念やルール、時間軸をいつでも確認出来きるようにすればいいということになり、その最良なツールとして手帳が用いられたのではないかと考えます。
『懐中日記』や『軍隊手牒』と並んで企業・団体の『年玉手帳』が作られるようになったのは、そんな急激に変化する時代をゆるりと定着させるために用いられたのではないでしょうか。
弊社は、1960年よりこの企業・団体向けの『年玉手帳』を作っておりますが、この年玉手帳には、実に多くの手帳を制作する事業体の思惑が見えており、面白いものとなっております。
当時の弊社で制作していた手帳の掲載内容を確認したところ、年間・月間・週間のカレンダーや身分証明書、鉄道路線図、鉄道料金表、企業・団体の規約や規則、業界の知識や所在地一覧、名簿、住所録、社歌、メートル法、度量衡、年齢早見表等ありとあらゆる情報が一冊にコンパクト(胸ポケットに入るくらいのサイズ)にまとまっていました。
鉄道路線図に関しましては、弊社の創業者が国鉄の関係者であったこともあり、手帳に初めて路線図を掲載したのが弊社になります。
さて、企業・団体から『もうらうもの』だった手帳が徐々に『買うもの』になっていき、今ではそれが当たり前になっておりますが、なぜそのように変わっていったか?
次回はそのあたりから話をさせていただければと思います。
※手帳の歴史やそれぞれの出来事に関しては、手帳評論家である舘神龍彦さんの記事を多分に参考にさせていただいております。手帳の草創期から現代の手帳に至るまでの遍歴や考察が素晴らしいものとなっております。 詳しくは是非こちらをお読みください。
参考文献
舘神龍彦『 手帳と日本人 私たちはいつから予定を管理してきたか』2018年NHK出版